8月6日に咲いた花々

  毎年、8月6日の夾竹桃の赤い花が咲く広島の暑い日を忘れた事はありません。

1955年5月の砂川闘争が始まった年から「第一回原水爆禁止世界大会」が始まり、大会後に「原水爆禁止協議会」=「原水禁」が発足しました。

 理事長=安井郁 

 事務局長=黒田秀俊=「横浜事件」で「中央公論編集長」を退任された方。

 *〔空白の裁判史〕は、原水協の黒田氏との協議によって仕掛けられる。

  1953年 安井郁  杉並公民館長就任

  1954年 志茂威  砂川公民館長就任

  1955年 早坂礼伍 国立公民館長就任

 砂川から「砂川ちよ」を教職員の推薦で派遣し、基地拡張反対も声明文に織り込んで頂く。その後教育委員長に推薦し、ちよさんも立川市との合併後の歴史編纂事業に、闘争の事がなおざりにされていた事で、「ごまめの歯ぎしり」」他三冊を出版致しました。この中でS氏(志茂)との公民館建設の経緯も書残しています。

 「中本たか子」さんは大会後広島に残り取材を続け、ピカドンに因る被害状況を見て回り、治療費は個人負担と書残して全て病院の様子も覆いかぶされていたそうです。中本さん初め文化人が始めて大挙してやって来たのは、その年の暮でした。その日以後、我家は実質的な「文化人本部」=「闘争本部」になりました。

 11月9日闘争が始まって6ヶ月、左右社会党の統一と総評事務局長が岩井章に交代した事に因る闘争方針の変換によるものと言われていて、石田労相と加藤勘十(元労相)の政治取引の結果、支援協が誰一人来なくて、16本の杭を打た地元民は敗北感を味わった事迄は、よく知られた事です。「占領軍の政策は平等を旨」としていたので、占領下では大臣クラスの人でも郵政省の志茂として対等に話合いが出来たようで、次の倉石労相や重光さんとも重要な局面で会っていて、宮伝町長と根本官房長官とのテイトホテルでのセッティングも「砂川合戦禄」に書かれています。鳩山総理始め、内閣の関係者にも、教育者として指導しているので、先ずは地元民に接見体験させていました。切羽詰まった窮地事には夫々のオーソリティーにお聞きして、闘争中も直ぐに役立て、自分自身も随分成長したと書残しています。

 

 「空白の一年」は、「農民闘争」の「限界点を地元民に体得させた上」で、後が無くなった第二次測量迄の間に何があって「測量中止宣言」まで出させたのかが、研究者の間で解明出来ていないと言われています。

 指導者は、声明文やあらゆる文章を書いていて、初の集会で既に原子戦争への声明を出しています。この日午前11時30分社会党に対して「穏忍自重」の声明文をお昼のニュースの間に合うようになり、空白の7時間半があって夜7時に「我々の闘争は今から始まった」と言う端的な力強い声明文を出しました。空白の7時間半の間に「中央討議」が「大学事務所」で行われ、我々とは「全面講和を唱える」人達と理解して良いでしょう。11日に「平和アピール7人の会」発足が発表されます。「全てタイムリーに進められている」と言っていたのです。この日から順次、類例のない闘争が展開してゆく。ここが闘争の分かれ目で、ここが研究者の間で今日まで解明出来ていないと言われているのです。

 

 「55年暮れの文化人が大挙してやって来た以後、我家は「文化人本部」=実質的な「闘争本部」になりました。最初に仕掛けた「第一作戦が原水爆禁止」運動で、「町ぐるみ闘争」に続き、こちらも公民館長として「町ぐるみ運動を議決」をさせる。「ぐるみ運動」は総同盟「高野実」の推奨していたもので、闘争の55年の事務局長選に岩井章に敗れ、総評と改名されるも、戦前からの高野の戦闘力を使う。この交代劇と、社会党の左右統一で闘争方針が変わった事で、砂川は窮地に追い込まれた訳で、そのお陰で「空白の一年」が出来て中央知識人を引入れる事が出来たと考える。

 「ジャーナリスト」との協力関係は重要な事で、夕方から始まる阿豆佐味神社の大会で読み上げる声明文を始め、文章類は全て局舎で志茂が用意をして、新聞記者に翌朝の新聞に間に合うように事前提供をしてしていて「ギブ&テイク」の関係を構築していたのです。類例のない闘争。

 「文化人招聘は第二作戦」で、翌1月「女性文化人来町を第三作戦」としています。戦後「女性解放」の先駆けとなった人達が名を連ねてやって来ます。特に「中本たか子・安井郁」の杉並勢は「ビキニ島」の水爆実験で「風評被害)が絡んで来て、ガイガーカウンターの反応に熱い。ちよさんと母はNHKの「この時歴史が動いた」で発言して来ました。

 第6回芥川賞戦地にて受賞の「火野葦平」は、受賞作「糞尿譚」と「花と龍」の大ヒット作を下げて、大きなオーラを放ってやって来ました。60年安保の年、この巨星の死が報じられました。「第一次測量阻止闘争」は、「糞尿譚作戦」と「割烹着姿の婦人連」で農民色を色濃く出して遂行する。中本さんは「白衣作業」で候補に挙がるもご時世上受賞を逃します。「芥川賞」は、審査員のコメントを読むとが大事です。

 10年後、共産党系の「原水禁」から社会党は分裂し「原水協」を作り、その事態で安井さんは理事長を退任され、「丸木伊里・俊の原爆の図の美術館」の館長に就任いたしました。この分裂状況が今日の「平和運動」の中にも、私には色濃く見えてしまい、正史を知らないで行動すると、せっかくの研鑽が台無しになってしまうレッテルを貼られる恐れがある。