砂川大学

 砂川闘争には研究者が未だ解明されていない空白史があって、闘争の指導者が持つ戦中・戦後の二つのプロセスから紐解きませんと、永久に謎のまま戦後の正史と闘争がレベルダウンした状況に義憤を抱いているのです。幻と言われている「砂川大学」を知りたいと言う研究者もいます。私は、三つ子の魂から「子ずれ狼」の拝一刀と大五郎のように傍で見て来たので、砂川大学の聴講生として卒業論文を書くつもりでいるのです。

1、戦時編

 ①、昭和天皇即位の礼の年に砂川郵便局に入局した志茂は、「東京都4000局」

   の一位を取り続け官報に載り続けたので、局長会から「三多摩の局長」を 

   「指導矯正」出来る資格を賜り中央入りする。(この航跡が「戦後政策」と

   「砂川闘争」の指導者としてヘゲモニーを任せられる。

 ②、1937年の皇国に繋がった人達が「戦後史と闘争史」の空白のセオリーを作っ

   た人達で、東大追放学者・人民戦線逮捕者・近衛ブレーンが大半でした。

 ③、3000条に及ぶ条文条項を暗記して「国民精神総動員法」=(事務局長が海後

   勝男)で「滅私奉公」が骨の髄まで染み込んだ自己研鑽を積んでた父でした

   ので「逓信報告団の旗手」を35万人の代表として仰せつかる。

 ④、逓信省は、陸・空・海を次々に統轄してゆき戦時中の位置が高かったよう

   で、目前の立川飛行場にも無関係ではいられなかったようです。

 ⑤、「土地収用法」の適応範囲が逓信事業に多く「空白の裁判史」を考え出す。

2、戦後編

 ①、占領軍が進駐するのを待って、司令官と折衝をし「食と職」の充足を図る。

 ②、一方で、RAAの出来ない自治体として、「風紀条例」なるものを作り米兵を

   砂川に入れない為に、パンパンに家を貸さない条例だと言って、「戦後政

   策」の指導者の位置を決めた。国立の浄化運動と公民館設立に繋がる。

 ③、常に模範的逓信省は戦後初の労働組合を作り、「三多摩労組の副委員長」に

   なり、立川の「土橋一吉」を委員長に推し、初の全国組織を作り「2・1ゼ

   ネスト」準備を中央郵便局でする。

 ④、「戦争反対者」をマッカサーは「戦争放棄の為」に重用したそうで、1937

    年の関連者がゼネストをバックアップし、そのまま砂川闘争の「空白の1

    年」に適材適所に順次引入れていたのです。

 ⑤、「民主主義的教育」は、「封建制打破」と言って、「基地」を抱えている為

    に「中央指針者が憂いている悪害対策」をするが、保守一辺倒に歴史を重

    ねて来た村内は厳しいが宮伝さんが志茂を擁護し、55年の選挙で勤労者組

    合が持つ凡そ500票で、7票差で当選させるも反宮伝派の動向が闘争の命取

    りになる。

  ⑥、「国民教育誌」の「海後宗臣・羽仁説子」に評価され、東京都の教育委員の

    「宮原誠一・丸岡秀子」に推挙され?国や都や村から30の公職を仰せつかり

    「早期独立」で「基地撤退」を目指してやって来たのが「基地残留」と言う

    「  足枷の付いた独立」になってしまった。そこに砂川闘争が勃発する。

3、闘争編 (農民闘争の限界点)

    文化人の総督「中野好夫」は、「日米行政協定」を「流血の惨事」まで砂川で

    知っているのはS氏(志茂)だけと書残しています。

    「中央と農村部の格差を無くそう」と言う運動も戦後あって、闘争講座が

  ①、11月9日と言う日、16本の杭が打たれて「農民が敗北感」に打ちひしがれてい

     た最中の午前11時半の昼のニュースに間に合うように、社会党に対して「穏忍

    自重」の声明文を出し、夜の7時に「我々の闘争は本日より始まった」と二度

    目の声明文を出す。闘争中この空白の7時間が闘争を左右する中央討議が行われ、こ⑦、国家を代表する学者諸氏数百人が砂川を天王山にし、ヘゲモニーを任された形

    の我々が、「こうして砂川は守られた」1956年の「流血の惨事後」の測量中止

    宣言の翌日の「役場の二階」で公式に行われた「勝利座談会」をご存じでしょ

    うか

    が待っている中で、⑦、国家を代表する学者諸氏数百人が砂川を天王山にし、ヘゲモニーを任された形