1955年(昭和30年)骨格測量 

十一 月九日 十六本の杭を打たれ窮地に陥る。〔空白の一年の始まり〕 

一九五六年(昭和三一年)十月十三日、誘導路部分測量で、流血の惨事。

   十月十二日 流血の前日、鳩山総理ソ連入り測量中止宣言〔空白の国連史〕

 二、「基地内土地返還闘争」土地を国土と捉えて、国民喚起闘争に組立て直す。

一九五七年 基地教育の先頭の砂川は、基地残留を司法の場に持込む。

 七月八日 基地内測量阻止で基地内突入させる。「砂川事件」となる。

「総評弁護団=砂川弁護団結成」海野晋吉・黒田壽男、最終二八三名結成。

一九五九年三月「伊達判決」下す。四月宮伝町長再選させ闘争続行出来るが、

 七人の被告と共に六十年安保闘争に向け全て中央に行き、平穏な教育現

場が砂川に戻る。

 一九六三年五月 立川市と合併。砂川闘争と北多摩郡一を誇る教育が公民館

  活動と共に埋没する。宮伝町長の死でも闘争続行の手が打ってあって、こ

れが原水協の「黒田秀俊」で、戦時中の中央公論の編集長で、「横浜事件

で退任した人です。

一九六七年 「裁判の空白史」「美濃部都知事誕生」で、知事権限の収用認定

取消で完全勝利。

一九七一年、美濃部旋風によって「阿部行蔵」立川市長誕生。「日米交換船」

    帰国組(平和運動の先頭集団)になるで、流血の惨事に全学連と共に最前

線を張った「平和委員会委員長」で、勝利座談会「こうして砂川は守られた」

を添付する予定です。「歴史評論」に志茂が指導者で、宮伝町長との五つの

公約が書残される。

*「空白の一年」に砂川に結集した良心的文化人は、「国民総動員法」で自由を奪われ、優秀な学徒を失った教授達は、全面講和を叫び砂川に結集しました。昭和史の一行に残った砂川闘争を語るのには、研究者が辿り着いていないと言っているこの「三つの空白史」を入れないと、一連の砂川で起こったジグソウパズルの様な絵図は完成しないと考えていて、本書の主題になるかと思います。

基地問題と戦後教育の原点(研究者用)

「郷土人文録」より判明したのが

①、「青少年対策委員長」=国から選出されたと基地年表より判明。

②、「防犯協会事務局長」=都が敗戦直後の一時期管轄していた時

 期がありまして、会長が「虎屋の15代目社長」でした。

*各自治体には教育委員会は、1952年の独立の年まで出来ませんでしたが、1950

 年東京都は『学識経験者』の教育委員12名を選出しました。この中から闘争時に

 来町が確認できたのが、3Mと言われた「宮原誠一」と「丸山秀子」で、「郷土     

 人文録」に残る志茂の二つの公職は、この辺りから選出されたと考えられます。

*都議会は闘争が始まって1ヶ月後に全員一致で、反対の決議をする。

 「空白の裁判史」と未だ言われていますが、同じ『学識経験者』の都の「収用委

 員」にご理解頂き、収用法が回らないようにしてあったのです。こちらは「原水

 協の事務局長」の「黒田秀俊」=(戦時中の中央公論の編集長で「横浜事件」で

 退任された方で、伊達判決後東大を退官して「平和」編集長になられた「中野

 夫」が、革新都政誕生」・「沖縄の瀬長亀次郎」・「成田闘争の戸村一作」を援

 護し、美濃部都知事誕生によって「土地収用法」が撤回され、砂川闘争は「完全

 勝利」となる。

*「宮伝町長拒否権の行使」の戦いも「類例のない闘争史」で、55年の選挙戦は、

 勤労者組合員と家族票の凡そ500票で、7票差で当選させる。影の参謀に志茂が

 り、青木行動隊長に選挙事務所に就任させる。

*「新制砂川中学校」設立から「闘争の三本柱」は繋がっていて、。59年「伊達判

 決」直後の選挙戦も同じ体制で数百票の差で再選させ、「公達の拒否闘争に因る 

 罷免裁判」は継続。「土地収用法に杭」=(第6作戦)を打ち不回転にしていた。

 昭和22年3月に「教育法施工」による第一回卒業生を出した事も稀な事で、23年8

 月から24年3月までを「青木市五郎」が「父母と教師の会」会長を務める。

*24年4月(社会教育法施工)から志茂がなり、ジュペル大尉推奨のアメリカ式PTA

 を参考に、「父兄が学校の教育方針を理解した上の組織」画期的な方針を作り上

 げ、これが「国民教育」の「海後宗臣」・「羽仁説子」に取上げられる。(文部大

 臣は、前田多門)。この時の会議に「大五郎」は自転車の後ろに乗せられて行き

 真っ暗な校庭の砂場で待つ。この場所に特別教室が出来たのも早期として取上げ

 られる。「模範的になる自己研磨は、皇国の時代の中央で培った」様です。

 帰りの自転車の志茂の背で聞いたでっかい夢の話。夢を追って戦後は復興。

  1、北多摩郡1の講堂を作るのだ。27年に完成したのも独立にあわせる為?

  2、北多摩郡1の高校を作るのだと言ってて、こちらも27年に合わせたようで、 

  当初は「立川私立高等学校」=「旧青年学校令によって出来たもの」で、PTA

  会 長に就任。「軍事施設の利用」もGHQ命令とか言って砂川中学校の校舎は

  「東京陸軍少年飛行兵学校」を移築。北多摩高校は、自衛隊の駐屯地の南側

  (現立川国際中高一貫校に迄昇格)を東京都と健闘して居たら、半分(第八方面

  本部)を作るのに警察に取られてしまったと言っていた。現グランドの西側に

  短大の校舎があって、立川短大は志茂の出生地昭島に移転させたんだよ。

   この時の検討に加わったのが 南砂川の「立川短大の中野藤吾学長」(自宅

  は「がってん」料理やになる)「立川二中の教頭だった阿豆佐味天神社の宮崎

  糺宮司」で、都との交渉事はの「黄門様の印籠のような効力があるメダル」を

 下げた志茂が全部引き受ける。「立川商工会」の「義兄の中野喜介・砂川出身の

 万田勇助=都議」の事業成功者のご協力を頂き戦後は復活してゆく。立川の不動

 産王と言われた「◎春興業」の創立者は、志茂の家の作代でした。府中の都議

 「小泉武雄」(宮伝家もご存じだと思う)や羽村の国会議員「並木芳夫=教育二

 法」(砂川

   闘争は内灘闘争をモチーフにしたもので、「丸山眞男」等が前田藩の「赤門」

  繋がりで金沢大学が近くにあると言う事で、大挙して東大教授が押しかけた話

  は、「日米行政協定」に初めて関わる事なので、研究者や探求者はご存じだと

  思います。砂川の指導者は、「類例のない闘争」宣言を出したのは、分厚い

  「内灘」と言う本を企画会議の部屋に置いていて、東大事務所内での討議で

  「改定安保」までの時間の読みをして企画遂行されていた。

   再び「教育に二法」に戻ると、教員が主導したと言うので、(教員が政治活

   動をしてはいけない)と言う法律らしいことが解った。 自由党でありながら

   教育二法に反対していたので教員に担がれて闘争に率いれ、拡張計画の第二

  案「ひん曲げ作戦」=「大原爆基地構想」を打出させる。この辺の事が、東京

  都の「学識経験者の土地収用委員」に受容れられたものと理解している。

  3、〔知恵ダルマの資金繰り〕各自治体は資金難の戦後、「新制中学校」建設問

 題で不幸な事態が起きた事は、文部省サイト」で見られますが、「砂川中学校十

 年誌」と言う貴重な資料と共に「第二回子供を守る会開催」の資料が出て来まし

 たので公開したいと考えて、改めて「占領下の中央教育と直結」していた「砂川 

 村の両教育と闘争史」を編纂して欲しいと願っている。

 *二つの私の記憶に残る事業は、「基地の悪環境に対して」都の交付金から出さ

 せたとも言っていて、講堂には戦後文化人数百名が参集し、「全学連の寝所」と

 なり、「第2回子供を守る会」=「長田新」会長・次期会長「羽仁説子」や「石

 垣純二」・「海後勝男」(兄宗臣は大学事務所での討議メンバー)の戦後教育界の

 主だったあらゆるジャンルの教育者が駆け付けた「砂川中学校講堂」は、砂川村

 最後の歴史的建造物として「砂川闘争」と共に戦後史に残すべきだった。

③、少なくとも二つ分かった公職を遂行するに当たって、「通行手形のようなメダ

 ル」を頂いていて、いつも懐中時計のようにズボンのベルトに下げていて「警察

 署長」と直接話合えると言っていて、「ヒロポン対策」や「純潔教育」までやっ

 ていて、「基地の子」取材協力は、立川の南口の「須田エンさんの家」を拠点

 に労農党の「木村喜八郎」や「松谷天光光」・「清水幾太郎」の奥様が見えてい

 らして、特に国立では「赤松要」教授と中央評価の「風紀条例」が参考になって 

 浄化運動→公民館設立→原水爆禁止運動に繋がったと言っていました。

   1953年 杉並の「安井郁」館長就任 

   1954年 砂川の「志茂威」  ″   (国家公務員と地方公務員の兼職)

   1955年 国立の「早坂礼伍」 ″ (明治学院大学教授)

*1955年 砂川闘争勃発。第一回原水爆世界大会(8・6大会) 

広島で開催後、 正式に「原水爆禁止協議会」が出来る。事務局長が「黒田秀俊」。

(1954年、自治警察が廃止されたので、郵政研修所へ行く手前にあった留置場迄あった国立警察の後を公民館にする口利きが出来たとも言っていた)

④、「皇国の時代」 昭和3年天皇即位の年に入局した志茂は、7つ

の目標を作り、東京都4000局の成績一位を取り続けて、「三  

多摩の局長会」を「指導矯正」出来る資格を賜り、窓口業務に

必要な3000条余りの条文条項を暗記して、「神様」呼ばわれ

されて中央入りする。毎年官報に載り続けて、官費で全国に

褒賞旅行に行く事十数年、帝国大学内でも認知されていた。

1954年、志茂が館長に就任した年から逓信省のこの制

度が採用され「優秀職員表彰と褒賞旅行制度」が実施され、

「全公連35年史」に掲載された公民館名によって、局長会

が関わっていた事を証明しようとしています。

ここには、朝鮮動乱の時(1950年5月のレットパージ~ 

1952年7月の日本独立)の頃、横田基地に原爆搭載機が着

陸態勢に入っている姿を父は私に見せ、これが闘争時の

「ひん曲げ作戦」に繋がって、砂川の流泉寺と瑞穂を結ぶ

「大原爆基地構想」で、瑞穂を始め西多摩郡と、歴史編纂

で、扇状地の扇点の青梅と繋がって、おまけに戦時中工事

が中断していた「小河内ダム」(完成が流血の惨事と同じ頃)

に公民館設立運動を広げていたのです。しかし、局長会は

「個人的要因が強い」と言う事で、占領下では認められま

せん。独立しても認られなく、「復活」の記事が出たのが、

1956年10月15日の流血の惨事の「こうして砂川は守られ

た」の勝利記念座談会の記事の上で、複雑な戦後史でした。

 

 逓信省は開戦に向って、陸・海・空を次々に統轄してゆき、

開戦が迫る頃、「逓信報告団の旗手」を仰せつかる。

 戦時中の逓信省の地位の高さと、志茂の個人的位置から出

来上がっていたコネクションが、「五大占領政策」「戦後政策」

に繋がって、「教育」をキーワードに「封建制打破」の「民主

主義」教育が進められる。

 

〔基地撤退〕を求めて「平和憲法」を推し進めようとする勢力は、独

立に因って「基地残留」と言う国家に嵌められた足枷になってし

まった事で、「全国の基地問題が激化」し、国土の4億坪が米軍

に接収されてゆく忌まわしき国情を「基地年表」を公表して、も

う一度「砂川闘争」が背負った本当の原点を知って頂きたいと考

えているのです。

 

「タイムリターン」

*「砂川闘争」を「戦後政策の集大成」と位置付けたいと思っている。

「基地残留と安保改定」 問題が真の日本独立の足枷となり、各団体が堰

を切ったかのように出来上り砂川に結集したのです。主力となったの

は、戦時中の「東大追放学者」と「人民戦線」の逮捕者(共産党社会党  

の二重党籍を持っている人)や、中本たか子さんの良人「蔵原惟人」

=(北里柴三郎の甥っ子)が束ねていた「プロレタリア界」の人達でした。

 

*占領軍は「戦争放棄」の為に戦時中の戦争反対者を重用したそうです。

 

・闘争の研究者が分からないと言う「空白の一年」が始まると我家は 

「文化人本部」となって、順次作戦を遂行してゆく。

・「国民喚起」も砂川闘争の評価点の一つで、全国3000ヶ所に送る支援

要請文の発送先リストと思われるものを持って、我家に毎日何十人も

の人が訪れた頃はもう最終作戦です。コピー機やFAXも無く、電話も

交換台を通しての通話の時代で、交通網も少ない時代ですから大変な 

作業で、文化人の対応は全て母が対応していたので、私はイレギュラ

ーな事が続くので良ーく覚えているのです。

 

 このような話も含めた占領直後から、「1955年5月闘争始め~1959年3月伊達判決」までの時代の砂川に戻って、今日のどうしようもなくなった方向舵を失った日本を、戦後史の原点からもう一度見つめ直して頂く機会にと願って「闘争講座」開設したいと考え出したのです。

 

8月6日に咲いた花々

  毎年、8月6日の夾竹桃の赤い花が咲く広島の暑い日を忘れた事はありません。

1955年5月の砂川闘争が始まった年から「第一回原水爆禁止世界大会」が始まり、大会後に「原水爆禁止協議会」=「原水禁」が発足しました。

 理事長=安井郁 

 事務局長=黒田秀俊=「横浜事件」で「中央公論編集長」を退任された方。

 *〔空白の裁判史〕は、原水協の黒田氏との協議によって仕掛けられる。

  1953年 安井郁  杉並公民館長就任

  1954年 志茂威  砂川公民館長就任

  1955年 早坂礼伍 国立公民館長就任

 砂川から「砂川ちよ」を教職員の推薦で派遣し、基地拡張反対も声明文に織り込んで頂く。その後教育委員長に推薦し、ちよさんも立川市との合併後の歴史編纂事業に、闘争の事がなおざりにされていた事で、「ごまめの歯ぎしり」」他三冊を出版致しました。この中でS氏(志茂)との公民館建設の経緯も書残しています。

 「中本たか子」さんは大会後広島に残り取材を続け、ピカドンに因る被害状況を見て回り、治療費は個人負担と書残して全て病院の様子も覆いかぶされていたそうです。中本さん初め文化人が始めて大挙してやって来たのは、その年の暮でした。その日以後、我家は実質的な「文化人本部」=「闘争本部」になりました。

 11月9日闘争が始まって6ヶ月、左右社会党の統一と総評事務局長が岩井章に交代した事に因る闘争方針の変換によるものと言われていて、石田労相と加藤勘十(元労相)の政治取引の結果、支援協が誰一人来なくて、16本の杭を打た地元民は敗北感を味わった事迄は、よく知られた事です。「占領軍の政策は平等を旨」としていたので、占領下では大臣クラスの人でも郵政省の志茂として対等に話合いが出来たようで、次の倉石労相や重光さんとも重要な局面で会っていて、宮伝町長と根本官房長官とのテイトホテルでのセッティングも「砂川合戦禄」に書かれています。鳩山総理始め、内閣の関係者にも、教育者として指導しているので、先ずは地元民に接見体験させていました。切羽詰まった窮地事には夫々のオーソリティーにお聞きして、闘争中も直ぐに役立て、自分自身も随分成長したと書残しています。

 

 「空白の一年」は、「農民闘争」の「限界点を地元民に体得させた上」で、後が無くなった第二次測量迄の間に何があって「測量中止宣言」まで出させたのかが、研究者の間で解明出来ていないと言われています。

 指導者は、声明文やあらゆる文章を書いていて、初の集会で既に原子戦争への声明を出しています。この日午前11時30分社会党に対して「穏忍自重」の声明文をお昼のニュースの間に合うようになり、空白の7時間半があって夜7時に「我々の闘争は今から始まった」と言う端的な力強い声明文を出しました。空白の7時間半の間に「中央討議」が「大学事務所」で行われ、我々とは「全面講和を唱える」人達と理解して良いでしょう。11日に「平和アピール7人の会」発足が発表されます。「全てタイムリーに進められている」と言っていたのです。この日から順次、類例のない闘争が展開してゆく。ここが闘争の分かれ目で、ここが研究者の間で今日まで解明出来ていないと言われているのです。

 

 「55年暮れの文化人が大挙してやって来た以後、我家は「文化人本部」=実質的な「闘争本部」になりました。最初に仕掛けた「第一作戦が原水爆禁止」運動で、「町ぐるみ闘争」に続き、こちらも公民館長として「町ぐるみ運動を議決」をさせる。「ぐるみ運動」は総同盟「高野実」の推奨していたもので、闘争の55年の事務局長選に岩井章に敗れ、総評と改名されるも、戦前からの高野の戦闘力を使う。この交代劇と、社会党の左右統一で闘争方針が変わった事で、砂川は窮地に追い込まれた訳で、そのお陰で「空白の一年」が出来て中央知識人を引入れる事が出来たと考える。

 「ジャーナリスト」との協力関係は重要な事で、夕方から始まる阿豆佐味神社の大会で読み上げる声明文を始め、文章類は全て局舎で志茂が用意をして、新聞記者に翌朝の新聞に間に合うように事前提供をしてしていて「ギブ&テイク」の関係を構築していたのです。類例のない闘争。

 「文化人招聘は第二作戦」で、翌1月「女性文化人来町を第三作戦」としています。戦後「女性解放」の先駆けとなった人達が名を連ねてやって来ます。特に「中本たか子・安井郁」の杉並勢は「ビキニ島」の水爆実験で「風評被害)が絡んで来て、ガイガーカウンターの反応に熱い。ちよさんと母はNHKの「この時歴史が動いた」で発言して来ました。

 第6回芥川賞戦地にて受賞の「火野葦平」は、受賞作「糞尿譚」と「花と龍」の大ヒット作を下げて、大きなオーラを放ってやって来ました。60年安保の年、この巨星の死が報じられました。「第一次測量阻止闘争」は、「糞尿譚作戦」と「割烹着姿の婦人連」で農民色を色濃く出して遂行する。中本さんは「白衣作業」で候補に挙がるもご時世上受賞を逃します。「芥川賞」は、審査員のコメントを読むとが大事です。

 10年後、共産党系の「原水禁」から社会党は分裂し「原水協」を作り、その事態で安井さんは理事長を退任され、「丸木伊里・俊の原爆の図の美術館」の館長に就任いたしました。この分裂状況が今日の「平和運動」の中にも、私には色濃く見えてしまい、正史を知らないで行動すると、せっかくの研鑽が台無しになってしまうレッテルを貼られる恐れがある。